LOGIN梁が、軋んだ。めき、と嫌な音が頭上で響く。火はもう天井裏まで回っている。熱で空気が歪み、煙が低く垂れ込め、息を吸うだけで肺が焼けるようだった。蘭珠は腹を抱えたまま床へ伏し、崩れ落ちそうな梁を見上げる。死ぬ。そう思った瞬間、不意に、火の向こうで何かが動いた。「蘭珠様!」声だった。低く、掠れているのに、聞き間違えるはずがない。蘭珠は目を見開く。炎の向こうから、楚凌が飛び込んできていた。煙を掻き分けるように進み、倒れた棚を蹴り飛ばし、そのまま蘭珠の前へ膝をつく。蘭珠が何か言うより早く、楚凌はその身体を抱き寄せた。「無事ですか!」「楚凌様……!」ようやく出た声は、涙で震えていた。その瞬間だった。頭上で、さらに大きな音が響く。火の回った梁が、崩れ落ちる。楚凌は咄嗟に蘭珠を庇い、自分の身体を覆いかぶせた。鈍い音。焼けた木材が背へ叩きつけられる。「……っ!」楚凌の喉から低い呻きが漏れる。だが、それでも腕は緩まなかった。蘭珠を抱き込んだまま、楚凌は歯を食いしばるように立ち上がる。「行きます」短く言って、蘭珠を抱き上げた。炎の熱が近い。煙で視界が白く霞む。楚凌は咳き込みながらも迷わず進み、燃え落ちる柱を避け、火の粉を踏み越え、出口へ向かって走った。外気が頬へぶつかった瞬間、蘭珠はようやく息を吸った。冷たい夕風だった。火に焼かれた肺へ流れ込み、咳が止まらなくなる。屋敷は、もう半分以上が燃えていた。赤い炎が屋根を呑み込み、色のついた煙が夕空へ不気味に立ち昇っている。近隣の者たちも異変に気づき始めているのか、遠くで人の叫び声が聞こえた。楚凌はその場へ膝をつき、ようやく蘭珠を地面へ下ろす。「足を……見せてください」息が乱れている。その声で初めて、蘭珠は楚凌の背中が焼けていることに気づいた。衣が焦げている。布の下の皮膚まで焼けているのが、蘭珠にも分かった。「楚凌様……! お背中が……!」蘭珠が震える声を上げると、楚凌は振り返りもせず、乱れた呼吸のまま小さく答えた。「問題ありません」「そんな……!」「妻と子を守るのは、夫の役目です」その言葉に、蘭珠は息を止めた。火の熱も、煙の臭いも、一瞬遠のいた気がした。これまで楚凌は、一度も無理に距離を詰めてこなかった。蘭珠が景炎を忘れきれていないことも、この腹の子
――時は、少し遡る。夕暮れの光が、門番屋敷の庭へ長く差し込んでいた。西日を受けた石畳は赤く染まり、昼間の熱をまだじっと抱え込んでいる。遠くでは、都へ戻る人々の話し声がかすかに聞こえていた。けれど、この小さな屋敷の中だけは妙に静かだった。周蘭は、もう帰っている。今日は何度も「本当に一人で大丈夫ですか」と確認された。だが蘭珠は笑って送り出した。熱も朝よりは落ち着いていたし、楚凌もすぐ戻ると言っていたからだ。そう。戻るはずだった。蘭珠は、縁へ片手をつきながらゆっくり腰を下ろす。腹が重い。子が育つたび、自分の身体ではないように動きが鈍くなる。立ち上がるだけでも時間がかかった。ふと、腹へ手を当てる。まだ小さく、だが確かに命がそこにある。景炎の子。そう思うたび、胸の奥に痛みが走った。あの人は、今何をしているのだろう。水路の噂を聞いてから、蘭珠は景炎の顔をまともに思い出せなくなっていた。かつて自分を優しく見つめてくれた男と、女子供を凌遅刑にかけたと囁かれる皇太子の姿が、どうしても重ならない。考え込んでいた、そのときだった。門を叩く音がした。蘭珠は顔を上げる。こんな時間に訪ねてくる者は珍しい。「……はい」ゆっくり立ち上がり、腹を支えながら玄関へ向かう。戸を開けると、そこに立っていたのは若い女だった。見覚えはない。宮中の女官にも見えるが、衣は地味で、表情も乏しい。「蘭珠様」女は静かに頭を下げた。「雪瓔様の使いで参りました」その名を聞いた瞬間、蘭珠の背筋に冷たいものが走る。だが、追い返すことはできなかった。雪瓔が何を考えているのか知りたい気持ちもあったし、何より、この時期にわざわざ使者を寄越した理由が気になった。「……入りなさい」女は無言で一礼し、屋敷へ入ってくる。戸が閉まる。その瞬間、蘭珠はわずかな後悔を覚えた。静かすぎる。女はほとんど足音を立てない。視線も合わない。ただ、命じられた通りに動いているだけのような、不自然な静けさがあった。蘭珠は警戒しながら距離を取る。「雪瓔様が、何か?」女はぼんやりした顔のまま答えた。「お手紙を預かっています」そう言って、懐へ手を入れる。蘭珠は反射的に身構えた。次の瞬間、女の手から現れたのは紙ではなかった。刃物だった。「……っ!」蘭珠は息を呑み、後ろへ下がろうと
楚凌は、踵を返していた。景炎が止める間もなかった。その背中はもはや臣下のものではなく、火の気配を嗅ぎ取った獣のように、ただ蘭珠のもとへ駆け出そうとする男の姿だった。景炎には、それが痛いほど分かった。胸の奥に、焼けるような痛みが走る。 自分も行きたい——蘭珠の元へ。あの女の顔を、この目で確かめたい。腹の子を守るために。だが、皇太子である景炎の足は、すぐには動かなかった。近衛たちが雪崩れ込むように室内へ入り、楚凌と入れ替わる。多くの目が自分に向けられている今、たった一人の女のために宮城を飛び出すことなど許されない。「殿下……!」誰かの声が遠く聞こえた。蘭珠。 脳裏に浮かぶのは、かつての彼女の控えめな微笑みだった。怒る自分に黙って寄り添い、手を重ねてくれた女。あれほど慕い、あれほど信じていたのに——。それを、自分は雪瓔の言葉を信じて、疑い、追い出してしまった。もしそれがすべて嘘だったなら。もし蘭珠の子が自分の血を引く子だったなら……。景炎の胸に、重い後悔が沈み込む。それはすぐに、煮えたぎる怒りへと変わった。「……蘭珠に、何をした?」声は低く、抑えていた。雪瓔は薄く笑った。楚凌が出て行った扉を一瞬だけ見つめ、それからゆっくりと視線を景炎に戻す。その表情には焦りなど微塵もなく、むしろ望んだ場所に辿り着いたような静けさがあった。「火を放ったのよ」景炎の呼吸が止まる。「蘭珠も、あなたの子も、火の中で死ぬわ。あなたはもう子を残せない身でしょう? ならば、あの子さえ消えれば……あなたの血は完全に絶たれる」血が頭の奥で煮え立つような激しい怒りが、景炎を襲った。視界が赤く染まる。 蘭珠を追い出した。民の信頼を失った。弟に裏切られ、国は揺らぎ、皇帝への道すら崩れ始めている。病に伏せる父帝の後を継ぐはずの自分が、暴君と恐れられている。このまま皇位を継いで、本当に国を治められるのか——。重く冷たい恐怖が、景炎の肩にのしかかった。逃げたいという衝動が、一瞬だけ胸をよぎる。だが、景炎はそれを振り払った。「この女を捕らえろ。牢へ繋げ。弟の謀反、蒼隼国との繋がり、すべてを吐かせろ。ほかにも裏切り者がいるなら、一人残らず洗い出せ」近衛たちが動いたその瞬間——「私を殺してちょうだい」雪瓔が静かに言った。景炎の足が止まる。彼女は逃げもせず、取
日が傾き始めていた。西日が宮城の高い壁に斜めに差し込み、長い回廊へ赤みを帯びた影を落としている。夕刻にはまだ早いはずなのに、昼の熱気は少しずつ色を変え、宮中全体を不穏な静けさが包み込んでいた。宮城の奥は、その時間になっても薄暗く、重苦しい。厚い壁に囲まれた回廊は熱を逃がさず、外では風が吹いているはずなのに、ここだけ空気が澱んでいた。遠くから微かな水音が聞こえるが、その静寂がかえって不気味さを増している。楚凌は景炎の半歩後ろを歩いていた。先導する近衛は無言のまま、足音だけが長い回廊に響き渡る。行き先はもう、楚凌にもはっきりと分かっていた。雪瓔のいる内殿だ。景炎は一言も発しなかったが、その背中には明らかな張り詰めがあった。怒りでも警戒でもなく、より深い、自分自身を疑う者のような硬さだった。やがて近衛が立ち止まり、重い扉の前に到着した。左右には女官長と宦官が控えている。女官長は景炎の姿を見ると、深く膝を折った。「殿下」「変わりは?」短い問いかけに、女官長は一瞬視線を伏せた。「……誰も外へは出ておりません。ただ、先ほど宿下がりの女が一人……」その言葉に、景炎の目が鋭く細まる。その瞬間、楚凌の胸が嫌な音を立てた。理由のない胸騒ぎだった。全身の血がざわつき、背筋を冷たい指でなぞられるような不快感が広がる。蘭珠の顔が脳裏に浮かんだ。熱に浮かされた青白い顔、腹に添えられていた手、何も言わずに自分を送り出した静かな横顔——。――考えすぎだ。楚凌は奥歯を強く噛みしめた。今の蘭珠のそばには周蘭がいる。医者も呼んだ。屋敷には見張りも置いている。何も起きるはずがない。ただの胸騒ぎだ。そう自分に言い聞かせ、ゆっくり息を吐いた。「開けろ」景炎の声が低く落ち、扉が重々しく開かれた。甘い香りが、ゆるやかに流れ出てきた。楚凌は眉を寄せた。以前より、はるかに濃い。肺の奥にまとわりつくような、湿った甘さだった。長く吸い込んでいると、意識の輪郭がぼやけていくような危険な気配がある。雪瓔は部屋の中央に座っていた。白い衣を纏い、長い黒髪を肩へ流した姿は、絵巻から抜け出した仙女のようだった。しかしその瞳だけは違った。深い水底のように冷えきり、感情を一切映さない。「……ずいぶんと物々しいのね」雪瓔が小さく微笑んだ。「罪人にでも会いに来たようだわ」景炎は答えなかった。
香は、まだ残っていた。先ほどと同じ煙が、同じように揺れているはずなのに、雪瓔の目にはそれがまったく別のものに見えていた。甘さは変わらない。だが、その奥にあったはずの、意識をほどき、思考の輪郭を曖昧にしていくあの柔らかな侵食だけが、きれいに抜け落ちている。効かない。それだけで、十分だった。雪瓔はゆっくりと息を吐く。焦りはない。ただ、これまで積み重ねてきた手順を一つひとつ剥がし、新しい配置へ組み替えていく、そのための時間を静かに測っていた。「……潮が引いた、ということね」小さく呟く。敗北ではない。ただ、場が変わっただけだ。指先で茶碗を持ち上げ、口元へ運ぶ。わずかに傾けると、舌に触れたのは先ほどまでとは違う、はっきりとした苦みだった。(慣れたのね)景炎はもともと強い男だ。精神の芯が太い。だからこそ急には壊れない。時間をかけ、層を剥ぐように侵していく必要があった。香を焚き、言葉を重ね、疑いと不安を種にして思考の隙間へ滑り込む。そうして少しずつ、少しずつ境界を曖昧にしていく――その手順を、雪瓔は一度も誤らなかった。だからこそ、ここまで来られた。(……でも、ここまでね)雪瓔は茶碗を静かに置く。音は立たない。だが、そのわずかな動きの中には、確かな区切りがあった。長く続いた支配が終わり、別の手段へ切り替わる、その境目のような静かな断絶が。ゆっくりと目を閉じる。浮かび上がるのは、煙ではない。赤だ。流れる血ではなく、刻まれていく血。刃が入る。肉が裂ける。声が上がる。それでも止まらない。止めない。雪瓔の喉の奥に、遠い昔の鉄の匂いが蘇る。血と汗と土が混じり合った、あの辺境の空気だった。(……凌遅)その言葉は音にはならず、冷たい感触だけが胸の奥に沈んでいく。雪瓔の一族は、北の辺境に生きていた。豊かではなかったが、貧しくもなかった。寒さに耐え、痩せた土地に根を張り、小さな火を囲みながら静かに生きていた。冬は長く厳しかったが、それでも家族は笑い、歌い、春が来れば草を摘み、香を作った。ただ一つ、違っていたのは――術を持っていたこと。香を調合し、草を煎じ、飲ませる。人の心を緩め、境界を曖昧にする。それだけのことだった。だが、それは支配する者たちにとって、許しがたいものだった。異端。排すべきもの。だから――滅ぼされた。雪瓔は
内殿の空気は、静かに淀んでいた。窓は開かれている。それでも風はほとんど入らず、焚かれた香の甘さだけが、ゆるやかに室内に満ちている。外の気配は確かにあるのに、ここだけが薄い膜に隔てられているように、どこか現実から切り離されていた。雪瓔は、その香煙を目で追っていた。細く立ちのぼった煙は、途中でほどけるように揺れ、やがて形を失っていく。その曖昧な輪郭を眺めながら、指先で茶碗の縁をなぞる。わずかに残る温もりが、逆にこの部屋の停滞を際立たせていた。外に、人の気配が多い。足音は抑えられている。だが消えてはいない。 控える者の数が増えていることは、耳よりも先に、空気の重さとして肌に伝わってくる。「……今日は、騒がしいわね」何気ない声だった。だがその一言に、側に控えていた女がわずかに顔を上げる。「様子を見てまいりましょうか」「ええ、お願い」柔らかく微笑む。命じる声ではない。それでも、拒む余地はない。女は静かに一礼し、扉へ向かった。 手をかける。開かない。もう一度、わずかに力を込める。 それでも、動かない。「どうしたの?」雪瓔は座ったまま、視線だけを向けた。女が振り返る。「……外から、止められております」その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに変わった。雪瓔は立ち上がる。ゆっくりと歩く。 衣の裾が床をかすめる音だけが、静かに響いた。扉の前に立ち、指先でその縁に触れる。確かに、外から押さえられている。鍵ではない。人の手で閉ざされている、確かな感触だった。(……ああ)理解は、驚きよりも先に来た。「誰の命かしら」声は穏やかだったが、その奥にはかすかな冷えが混じっている。扉の向こうで、気配が動く。しばらくして、女の声が返る。「皇太子殿下のご命令にございます」雪瓔のまつげが、わずかに揺れた。だがそれだけだった。「そう」短く返す。その声に乱れはない。呼吸も、変わらない。「では、女官長もいらしているのね」少し間を置いてから、別の声が返った。「……いかにも」年嵩の女の声。抑えられているが、硬さが隠しきれていない。雪瓔は、わずかに目を細める。「顔を見せていただける?」静かに問う。だが扉は開かない。代わりに、すぐ外まで気配が近づいた。「ここからで失礼いたします」その声音には、はっきりとした距離があった。
門番宿舎で暮らし始めて、一ヶ月が経った。華やかな宮中は、もう遠い。 朱塗りの柱も、香の煙も、絹の衣擦れもない。 ここにあるのは、土と木の匂いと、夕方になると肌にまとわりつく湿気だけだ。蘭珠は、まだ慣れずにいた。慣れないのは、家の狭さでも、貧しさでもない。 慣れないのは、自分の立ち位置だった。夫と呼ばれる男が隣にいる。 けれど楚凌は、蘭珠を「妻」として扱うより、「主の妻」として扱っている。 声も、視線も、距離も、慎重に保たれていた。妊娠初期のつわりは思った以上に重い。 朝、粥の湯気を嗅いだだけで胸が波立つ日もある。そんな日々を支えているのが、通いの下働きだった。名は周
楚凌が東門の見張りへ向かったあと、蘭珠は静まり返った小さな家の中を見渡した。こんなに“やることだらけ”の空間に放り込まれたのは、生まれて初めてだった。「……えっと。まずは、お掃除……かしら」宮中では片づけは侍女の仕事だった。 蘭珠が持つ箒の使い方は、見よう見まねでしかない。それでも、やらなければならない。(楚凌様は……わたくしのために働きに出てくださっている。わたくしも……できることを)意気込んだものの、数刻後。部屋の隅には、掃いたはずの塵が小さな山を作り、桶いっぱいに汲んだ水は床にぶちまけてしまい、洗濯は桶に浸けただけで腕が疲れて動けなくなった。「ど、どうしてこんなに難
景炎の怒号が、後宮の静けさを破ったのは、春の風が落ち着かない夜のことだった。「蘭珠! 余の前へ出よ!」寝所で文を書いていた蘭珠は、手を震わせて立ち上がった。 声が怒りに濁っている。こんな景炎の声を聞くのは初めてだ。胸がずくりと痛む。(殿下……どうされたの……?)扉が激しく開かれた。 景炎が立っていた。金の瞳が燃え上がったように怒りに濁っている。 その後ろに雪瓔が控えていた。薄い白衣が風に揺れ、微笑んだように見えた。「殿下……?」蘭珠が一歩近づこうとした瞬間、景炎は冷たく手を払うような仕草をした。「近寄るな」その声音に、蘭珠は息を呑む。「楚凌と……何をしていた?」心臓が止
帳の内には、蘭珠と芳玉が向かい合って立っていた。部屋の中央には、まだ誰の手にも触れられていない琴が一面、静かに置かれている。その周囲には、紙問屋の主人夫妻と、周蘭の姿があった。皆、どこか落ち着かない様子で、二人の間に視線を行き来させている。「……」蘭珠は、ひとつ息を整えたあと、ゆっくりと視線を上げた。「少しの間、芳玉様と二人でお話ししてもよろしいでしょうか」静かな声だった。だが、拒む余地のない調子でもあった。紙問屋の主人が、戸惑いがちに口を開く。「しかし……先生、お腹も大きいのに――」「ご心配、ありがとうございます」蘭珠は柔らかく微笑んだ。「けれど、琴の稽古は、まず本